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昨日の誕生日は日曜日のお話し会の準備!(やればやるほど楽しい♪)して、夜は相方と食事でした。ふと、誕生日のエピソードを思い出しました。
子供のころ、誕生日プレゼントをもらったことがありません。
いま、頭の中でどんな言葉が浮かんだ?
「かわいそう」
「親が居なかったの?」
「貧乏だったのかな」
人は自分のメガネを通して人をジャッジ(判断)するものです。。。
それは自分自身にもやっている。
でも、その創作ストーリーをやめて客観的に見ることができたら、、、
それがあなたが欲しい幸せってやつになるんだろうな・・・
さて、私はなぜプレゼントをもらえなかったのでしょうか?
★
答え!
それは「私がもらってなかった」と思ったから。
本当はもらっていたんです。何を?
それはのちほど。。。
私は四角い箱に入ったリボンがついているものが欲しかったんです。それが私にとってのプレゼントで、プレゼントをもらうことが愛している証拠だと信じ込んでいました。
「あぁ、やっぱり私は愛されていないんだ。大切にされないんだ。生まれてきちゃいけなかったんだ。。。邪魔者なんだ・・・」
そうやって拗ねて生きてきた。
それが一番の生きづらい原因で親のせいで私は幸せになれない、弟は可愛がられたのに、、、と恨んで生きてました。
それらが自己探求で徐々に変わって、最終的にその思いが消えた。。。
奇跡だった。消えるなんて思ってもみなかったし、それこそが私を苦しめていると思っていたのでびっくりだった(笑)
さて、私がもらっていたプレゼントとは・・・
ケーキです!🎂
家族みんなで食べるケーキ。
確かにうちは裕福ではなく、子供が3人、そのあともう一人。計4人の子供。
必ず誰かの誕生日にはケーキを買ってみんなで食べる!のが習慣。
12月生まれの私はクリスマスケーキと一緒にされていたので余計に「私は要らない子なんだ」みたいな想いを強めていた。。。
(ちなみに深いビリーフは後々、自分で癒してあげれたわけですがそこの私を責めることなく、その思いは大切にしてあげながら、そこをどうにかしようとせずとも気づくとこの思いはなくなりました~)
母は世の人が言う「いい母親」ではありませんでした。
そんな母が大嫌いでした。「母親らしいことしろ!」といつも母を恥ずかしいと思っていました。
プレゼントをくれなかったことだけではありません。
「子どもを愛せない悪い親」
そんなレッテルを母につけて母を恨むことで自分を正当化させていた。
でも、その創作ストーリーから離れてよーく観察してみると本当のことに気づきました。
「愛されていた」
のです!
私は十分に愛されていた。そのことが腑に落ちたときに過去が消えた。すごい涙があふれ出ました。。。産んでくれただけでありがとう!って感謝になった。
私は私の理想像に当てはまらないから勝手に思い込んでいたです。そして、母とはこういうもんだ!親ってこうであるべきだ!そうでない親はダメ!
うちはひどい家庭・・・私は可哀想な子、そんな風に勝手なアイデンティティを創作して生きてきました。
家族って仲良しであるほうがいいに決まっていると当然ながら思っていませんか?思う間もなく決まりきったことと。。。
でも、これも同化してしまっています。常識や集団意識から。
人それぞれの幸せが違うように家族の在り方も違います。プロセスもあるから時期というのもあり。
なのに、一つの答え「家族は仲良くあると幸せ」にすべての人を当てはめようとすることこそが不幸。誰かの、定型の、幸せにしようとするから苦しみが生まれる。偏見が生まれる。
血のつながりなんて私には縛り、にしか感じません。美談をするため、正当化するためのもので本当の幸せは一人一人がその性質を尊重しあい、自分らしくある生き方をすることが心地よいと思っています。それすら私の考えですから縛られているほうが楽な人だっている。
大切なのは自分として生きているか、ということ。
あたかも当然のようなことは常に疑ってください。クリアな目で偏見なく見る。信じている事実に距離を置く。
私はプレゼントをもらうことが当然、と思っていたのでもらえない自分に理由をつけていたんですね。自分勝手な。
でも、じつはとても幸せだったんだ、、、と感じられた。
そのことこそが私を解放させました。
自分で鎖をきつくしていたことに気づいて、徐々に緩ませていくともう感謝しかなくなった。
そうやって自然に感謝できることが幸せです。
「家族だから仲良くあるべき」
「家族(親子)はいつも一緒にいるべき」
「親は大切にするべき/面倒みるべき」
「子どもにはきちんとしつけをすること」
「血のつながりは強い」
「親孝行すべき」
「夫婦がいつも一緒だと仲良し」
その考えこそが幸せを奪っていることもある。誰かを不幸にしている。自分を不幸に。。。
状況としてそうせざるをえないこともありますが常に固定された考えから一歩引いてみることは誤った判断、選択をしないためには非常に大切。
ここができる人とできない人の差は大きい。
固定観念に飲み込まれているのか、クリアな視点で見ているのか、、、
「愛されてなかった」→「愛されていた」
は後から気づいたことですが過去の記憶は上書きされました。
でも、別にこのように親との問題が解決されなければいけないわけでもなく。
それぞれのプロセス。
家族で旅行行っていることが仲良しの家族なのか、両親が子供を抱えて笑顔で写真に写っているから幸せな家庭なのか、「大好き、理想の理想の親です」と言っているのがいい子供なのか。兄弟姉妹が仲がいいと素晴らしい家庭なのか。いいしつけをしてきた、と言えるのだろうか?夫婦が長いからって、いつも一緒だからって、本当にずっと幸せだったのだろうか?
そこに重きを置くのもいいし、それが家族って思う人もいるし、、、
でも、忘れてならないのはそれがほかの人にも当てはまらないってこと。自分の理想を他人に求めたらお互いが苦しくなるからね。
家族って近いほど色々と浮彫りだされる感情とか事件とか。。。
決して常識や意識に振り回されずにどうぞ。
「家族と仲が悪いからあの人は可哀想」と思うなら、そこで終わらせず、あなたが家族になればいい。
そういった観念がないうえで親に優しくしたければすればいいし、できない自分を責める必要はない。
ハンドリフレクソロジーで「家族の手は神の手!」とうたっているのですがこれは別に血のつながった戸籍上の家族、だけではなく、だれもがコミュニティーに居て、助け合う家族であると思っています。
身近なのは親子、ですが、そうでなくても隣に居る人だって宇宙の家族であることに変わりません。
隣に居る人、が家族。つながっている。(ひきこもっていたってだれかと繋がっている。。。一人じゃない。)
そこに一緒に座って、話したくなければ何も話す必要はありません。
手を取り、リフレクソロジーをする。アドバイスも何も要らない。あなたの手があれば。
触れることは愛すること。by 山口創
この言葉が大好きです^^
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